2018年の夏は暑く感じますね。台風は来ると言って来ないような、来てるらしいけどなにか横を通り過ぎているような、そんな感じです。よくわかりません。8/8日のジャム・セッションでは、こういう悪天候のときほど、空いてて順番が回ってくるので来なきゃダメと日頃言っていたら、黒岩さんが青山から早めに来てくれてビックリ。エライ! 僕らも頑張らねば!
2017年の新年、あけましておめでとうございます。
これは村尾陸男から皆さんへの年賀状です。このあいだある年配の人が年賀状を出すのを昨年で終了させてもらったと言っていたのを聴いて、僕は本当のところ驚きました。そんなことができるのかと。僕は知りませんでした。なら僕も終わりにしたいです。もう精神的には僕はとっくに終わっていて、年賀状に関しては僕のすることは最低で悲惨です。字が下手で自分でも読めない字を書きますし、よく字を間違えますし、アベとかサイトウとかワタナベとかはたくさんの字があって、僕はいつも出すときは滅茶苦茶です。自分で言うのもひどいですが、何度も人の名前の字を間違えています。
僕はもう人に失礼なことをしないように、年賀状は終わりにしなくてはならないですね。それに年賀状では2、3行しか書けないですが、メイルならこういうふうにたくさんのことが書けます。字が判読不能なんてこともないです。終わっていると言えば、僕はそのほかいろいろなことが終わっています。TVを処分し、ラジオはなく、新聞も取らなくなって久しいです。みんなが知っている当たり前のことを僕は知らなかったりします。アメリカの大統領選のことなど、しばらくしてから知りましたけど、どっちみち僕にはどうでもいいです。僕には世間のことは関係なく、もう人生が終わりかそれに近いと思っているのかと言われると、いやそんなんではないです。全然そうではないです。
僕は今からしたいこと、しようと思っていることがいっぱいあります。本はあと10冊くらいは出すでしょう(売れる売れないに関係なく)。頭のなかはそんなことで詰まっていまして、人と話していて相槌を打ったりしていても、本当はなにも聴いてなく、そんなことを考えたりしていて、時どき大きなヘマをやります。困ったもんです。そういう症状はドンドン進行していて、留まる気配は見えないです。自分のことや自分の関心のあることしか考えない、人やほかのことはどうでもいい、徹底的にイカれていて、そういう自分を恥ずかしいとか間違っているとか思ったこともないです。人のことはどうでもいい、わからない、わかろうともしない、という一種の高度(?)の認知症ですし、しかもドンドン進行していて、自分でさらにそれを進行させているところもあります。手に負えないですね。
というわけでこれは年賀状代わりのメイルです。今年は、よくある年賀状セリフですけど、張り切ってたくさんのことをやっていこうと思います。あれもこれも。なにをやるかは、まあ見ててもらうしかないです。なんにもできずに終わる可能性もありますけど、まあ頭のなかはあれこれ回転していて、結果がどう出るかはなんとも言えません。不発で終わることもあるでしょうけど、まあ僕の頭のなかはフル回転でビシビシやっていくと、そんなふうに思っています。では、今年は僕は気合を入れて頑張りますよ、と言ってこの念頭挨拶メイルを終えることにします。今年もよろしくお願いします。リク 2017/1/1
1942年北京生れ。東京、高松、東京と移り住んだが、母親が代々の江戸っ子だったのと10歳から30歳まで新宿区市谷に住んだので、かなりの部分で東京人。慶応大学工学部応用化学科に進んだが、全然やる気なく中退して音楽の道に入る。20歳でバンドの仕事を始め、河辺公市とスウィングジャイアンツや菅野邦彦4に入り、ギターで二年ほど仕事をしてから、ピアノに転向した。24歳で渡米し一年弱研鑽し、帰国後は主にソロや自分のトリオで赤坂、高輪のプリンスホテル、銀座、六本木のクラブなどで仕事をした。30代から本格的に英語の勉強をし始め、呼吸発声の研究をしながら、音楽書の著訳書を多く手がけた。ジャズ詩大全22巻、《ティ・フォー・トゥー物語》、《ピアノ・フィンガー・ウェイト・トレイニング》、W・C・ハンディ著《ブルース・アンソロジー》など。横浜のジャズスクールで呼吸発声を教え、劇団四季の英詩訳などを担当し、現在演奏活動と平行して、横浜-関内にてジャズクラブ・ファーラウトと教室ファーラウトを経営している。
1 英詩解釈講座
ジャズのスタンダード曲やポップスなどの英語の歌詞の意味を解釈し、歌うときの発音や表現の微細を実際的に勉強する講座。日本人に一般的に多く見られる欠点は、解釈と発音、聴音の拙さであり、具体的、実際的な例を通して、歌詞に取り組んで唄を解釈していきます。リチャード・ロジャーズとロレンズ・ハートの [I Didn’t Know What Time It Was] には [時さえ忘れて] という邦題がついてますが、一見もっともらしく聞こえるものの、didn’t knowに忘れるという意味はないです。こんなふうにすぐに誤訳にぶつかります。あるいは [Softly as in a Morning Sunrise] は「朝日のようにさわやかに」という訳で通ってますが、これはある日突然、恋(人)がやってきたかと思ったら、また突然、音もなくそっと恋が去っていった、というオスカー・ハマースタイン二世の格調高い詩です。だから「朝日の昇るようにそっと静かに」恋が去っていったと訳さなければならず、「さわやかに」では笑い話になってしまいます。意味を考えないとこういう訳になるんですね。まったく厄介です。4–6曲ぐらいを100分かけて解釈、解説するクラス。
2 教室ファーラウトに「ピアノ弾き語り科」を新設
ピアノ弾き語りは、基本的には楽譜を見ながらはできません。コード進行、メロディ、歌詞の意味など、すべてよく憶えて咀嚼してからでないとできません。よく楯か壁のように大きな楽譜を前に立てて弾いている、あるいは弾き語っている人を見ますが、もちろんそれでは恥ずかしいような結果しか得られません。ピアノだけでも弾くのが大変な楽器なのにさらに歌うとなると、これは大変をはるかに通り越していますね。
ナット・キング・コウルがまだピアノから離れずに歌っていた時代は、今で言う「ライヴ」ではなく常に「ショウ」としての良さを求められていたので、彼は客やテレビカメラに向かって笑顔を作り、鍵盤は滅多に見られませんでした。もちろん楽譜を見るなんてことはあり得ません。
かつて日本のテレビでアナウンサーに”ジャズ・ミュージシャンとは何ですか?”とくだらない質問をされて、トランペットのクラーク・テリーは真顔でこう答えていました。
—本当のジャズ・ミュージシャンとは、楽器が弾けて、歌が歌えて、スキャットをできる人を言うんです。
彼やディズィ・ガレスピやジェイムズ・ムーディは、楽器、歌、スキャットがどれもできる万能型でした。僕もいつしか、歌っているけれども固まってしまって進歩しない人を見ると、”もっとうまくなりたいと思うなら、そこから先はピアノを弾くしかないだろうね”なんて言うようになりました。
ピアノは大変ですが、歌をうまくするにこれ以上のものはないです。サラ・ヴォーンは最初のうちはピアニストでしたね。カーメン・マクレエも日本で弾き語りを披露していました。アニタ・オデイは日本に来たときに、 [You’d Be So Nice to Come Home to] の25小節目のトニック・ディミニッシュのところでディミニッシュ・コードの分解フレイズをやって、ははあ、彼女は相当ピアノでコードを研究してフレイズを作っているなと思わせました。メル・トーメも一時はピアノをやったりドラムを敲いていたりしましたね。こんな話しはいくらでも出てきます。
ボビー・ショート、マット・デニス、ボビー・トループは、いずれもピアノを弾きましたが、弾き語りとしては声が出ないとかピアノがいまいちとかの欠点を持っていました。ウィリー・ザライオン・スミスはピアニストで歌は下手でしたが、それでも臆せずときどき歌を挟み、それも下手などとは思わせないなにか素晴らしい魅力を持った人でした。ちょうど昔のエノケンと似ていますね。エノケンも一見歌が下手でしたが、じつはなかなかうまかったです。
ロウズ・マーフィは、もう普通の尺度では計れないなにか天才的なものを持っていて、聴き手を自分の世界に引っ張りこんでしまう不思議な人でしたね。モダンなジャズとは遠い人でしたが、にもかかわらず魅力一杯の実力に支えられた人でした。ナット・キング・コウルもニーナ・スィモンも最初はピアニストでした。コウルは客に、スィモンは店長に、歌えと言われて仕方なく歌ったのが、歌い始めたきっかけだったんですから驚きです。音大で声楽を何年もやっても駄目な人は駄目ですが、できる人は楽器に関係なく歌がうまいですね。
さてでは、この難しいジャンルを教えるとして、どうしたらいいでしょうか? ピアノがある程度弾けるということが、生徒として受け入れる条件でしょうね。しかしその逆で歌がある程度できている場合も、必要条件として考えてもいいです。そのどちらもできていないという場合は、ピアノだけまたは歌だけでまずはレッスンを受けた方がいいですが、30分の無料体験レッスンをしてあげますから、まずは少し弾き語ってみて、その結果でどういうレッスンをすればいいか考えてみましょう。
弾き語り科無料体験レッスン—30分
入学後のレッスン代は通常の規定に準じます。
3 同じく教室ファーラウトに「英文飜訳講座」を新設
英文飜訳について勉強します。易しいものはそう問題はないですから、学校教育の英語でも足りるでしょう。難しい英文の訳は、たんに英語解釈の問題にすまされず、訳文そのもの、つまり日本文を正確に理解し組み立てられなければなりません。日本語よりも英語の方が合理的でより哲学的思考があてはめられますから、あるところまでは逐語訳でもなんとかなるものの、あるところから先は日本文を非常に精巧に長く論理的に組み立てる必要が生じてきます。これが一番難しいです。つまり慣れてくると英文理解は案外容易で、日本文組み立てができないという、変な現象が出てくるわけです。
これは日本語の根幹に潜んでいる非論理性、不合理性による問題と言えるでしょう。難しい文ほど組み立てや論理性に苦労させられ、文は元の英文よりはるかに長くなります。しかもたいていは元の英文より理解しにくくなります。従って訳文はだいたいにおいて元の英文の1.5倍から、2倍になります。原文の引き締まった一文が長くくどくどとしたものになり、ときには三つや四つの文になります。拙い訳ほど長く多くふくらみ、量が多くなります。英文で500頁の本は日本文でだいたい1000頁近くなり、これは期せずして日本語そのものに存する非論理性、不合理性を証明しています。つらいことですが、これは歴然としていて、文化の質を決定づけていると言えます。
通訳というのは英語を聴き取る能力が必須ですが、意味さえつかめればそれほど訳文は完璧でなくてもいいわけで、その意味ではやや楽な仕事です。映画の字幕などは、字数の制限が厳しいですし、誰でも使っている日常の言葉でなくてはいけないですから、そこには独特の難しさがあります。この二つは似ているようで質がまったく違いますし、さらにこの二つとも違うのが飜訳です。学術書でいい加減な訳がつけられている例は多いです。アメリカのある学者が書いた水に関するベストセラーが日本で飜訳出版されたとき、出版社からそれをもらいましたが、訳文が恐ろしくひどく、意味がわからなくなり、途中で読むのをやめたことがありました。そしてそのベストセラーはまったく売れずに終わりました。意味の正確さ、解りやすさとその構文、これは飜訳の命です。
この英文飜訳講座では、量よりも質に重きを置き、飜訳の難しさ、易しさ、楽しさなどを皆さんに伝えられたらと思っています。体験レッスンはありません。講座は不定期で、申し込みが二人以上になったときに開講し、教室ファーラウト生徒は講座券で、そうでない一般の方は一回2000円で参加できます。題材はそのときによって変わり、また受講者の希望にも添ってやっていきます。時間は100分で、あいだに5分休憩をはさみ、計105分です。
そのほか「呼吸発声レッスン」「腹式呼吸理論講座」もあります。
→ http://www.jazzclubfarout.com/archives/2159
また英詩解釈講座はすでに行われています。
→ http://www.jazzclubfarout.com/archives/1769
申し込みは、ジャズクラブ&教室 ファーラウト 045-226-2278 または school@jazzclubfarout.com へ
先日、電車の中の週刊誌の吊り広告に目をやったら、酒井法子の子供が偽名を使ったとか、彼女に母親の資格なしとか書かれていた。そして家に帰って夜12時のニューズを見ていたら、彼女が介護の仕事に就く意思を示し、創造学園大にオリエンテーションを受けるため登校したところを映し、横から記者が質問を浴びせていた。また子供が学校へ行ったとか、行っても保健室にこもっているとか、そのほか子供に関する多くの報道が見られた。日本人のこういうときの興奮ぶりはまさにバッシングと言えるもので、ひどく凄まじい。酒井法子の報道になると、日本人は狂ったように興奮し、ニューズも最初の方に大きくとりあげ、全体に緊張感がはしる。マリファナや覚醒剤にしろ、個人の使用は個人の問題で、他人にはほとんどなにも関係がない。少なくとも彼女は他人にこれといった迷惑はかけていないはずだ。それを社会に迷惑をかけたという感覚で大犯罪者扱いにする。マリファナや覚醒剤を売って商売をしたのなら、犯罪者扱いでいい。だが個人の使用は個人の問題で、社会は関与していないことだと理解しておかなければ、社会自体が下らないことに振りまわされるだろう。いやむしろ社会は最初からこんなことに関与すべきでないのだ。個人の薬物使用などまさに些末なことで、社会はそんなことに拘泥していてはいけないのだ。騒ぐのなら彼女に対してではなく、マリファナや覚醒剤を売って商売をしている犯罪者に対してである。
オランダ、ベルギーではマリファナ喫茶店がある時代である。スペインではすべてのマリファナや覚醒剤や麻薬類の使用が合法化された。なにを服用しようと個人の責任でするべきことだから、基本的には自由だというのだ。もちろん有名女優がそういうことをすれば、新聞やTVニューズの記事にはなるだろうが、小さく隅っこに載るだけで終わりだろう。アメリカですらたぶん同じだろう。こういった日本の報道で喜ぶ人たちは、彼女は子供たちにも顔を知られている有名人で、公的な立場にいるから社会的な責任がある、などと必ず言う。だが有名人もスターも人間であり、ときには犯罪も犯すしあれこれ窮地に陥りもする。それだけだ。相手が有名人やスターやタレントだから、われわれが彼らになにをしてもなにを言っても、彼らはそれに耐えなければならないわけではない。われわれは彼らを公平に扱わなければならず、こんなことで彼女を社会に迷惑をかけた犯罪者として扱うのは、むしろわれわれの犯罪である。新聞、テレビ、ラジオ総動員で徹底的にやる無遠慮で犯罪的な報道の攻撃である。
こういう事態をもたらすのは、日本人がまだ個人の権利を理解していないからにほかならない。個人の権利がなんたるかを理解していれば、他の個人がマリファナや覚醒剤や麻薬を使用して破滅しようとしまいとどうでもいいし、少なくともそれはその個人の問題で、他の個人にとっては問題ではなく、つまり社会が関与すべき問題ではないのだ。また社会はそういうものであってはならないのだ。個人の選択の自由に関して日本人が良識をもっているならば、そういう選択の自由を保証してもらいたいと日本人個々人が思っているならば、他の個人の選択の自由をも尊重しなければならない。犯罪は許されざるものだとしても、他人の個人的自由に容喙するのは、個人的自由が理解できないと言っているようなものであり、それがゆきすぎればそれも一つの犯罪になる。ましてや社会はその程度のことを理解していなければならないし、マスコミは社会の道標としてそれを理解していなければならない。
彼女の子供のことなどもっとも触れるべきでないし、マスコミは彼女の子供のことを根掘り葉掘り報道する権利すらないだろう。それこそ恐ろしい犯罪だ。彼女が犯罪者だとしても、それが彼女の子供をマスコミが記事にしてもてあそぶ権利を保障するわけではない。マスコミはその程度の良識も持てないほどに堕落している。堕落どころか、腐敗していると言った方がいいかもしれない。マスコミの腐敗は彼らが視聴率にしか関心がないからで、そういう記事を日本人大衆が望んでいるということをマスコミはよく知っていて、彼女だけでなく子供まで笑いものの対象にして大衆の好奇心におもねる。マスコミは堕落しているが、そうさせているのは日本人大衆である。美人スターの破滅を見るのが楽しく、警察に追いつめられていくのをドキドキしながら注視し、あげくはその子供の動静まで偽名を使ったなどと笑いものにし、彼女に母親の資格なしと言う。いま彼女に母親の資格なしと言える人間が、いったい日本にどれほどいるのだろうか? 彼女の子供を記事にしてもてあそぶマスコミと大衆のどこに、母親の資格を云々する資格があるのだろうか? 本当に不快でやりきれない思いにさせられる、そしていつも通りの、日本のマスコミと大衆の茶番である。2009/11/20公示 2015/8/30校正